竹橋にある東京国立近代美術館で「所蔵品ガイド」に参加しました。作品をただ鑑賞するのではなく、ガイドの方や参加者との50分間の対話を通して、語られないものにそっと触れるような時間でした。
この体験は、アートを通じて自分の感覚をたどるひとときであると同時に、キャリア支援に関わる私にとって、仕事や人生の問いと静かに向き合う“交差点”でもありました。3つの作品をじっくりと見つめ、他者のまなざしに刺激を受けながら、「見ること」「感じること」「言葉にすること」のあいだを揺れ動くことで得られる出会いを愉しみました。

板倉鼎《休む赤衣の女》── 静けさの奥にあるまなざし
最初に立ち止まったのは、板倉鼎の《休む赤衣の女》。
赤い衣の女性がベッドに横たわる姿は一見穏やかですが、参加者の間で「左右の目の大きさが違う」「表情に2面性がある」といった声が上がり、静けさの中に違和感を覚えました。
さらに首の角度や肘の線、ベッドや床の構成などが直線的であることにも注目が集まりました。ガイドの方から「構図全体について何か気づきましたか?」と問いかけがあり、画面全体が計算された直線で構成されていることに改めて気づかされました。
そしてガイドから、「モデルとなった女性は妊娠中で、ポーズをとりながら一人目の子どもを見ていた」という説明がありました。その瞬間、視線の意味や微妙な身体のバランスがぐっと現実味を帯び、画面の奥にある時間や気配が感じられるようになりました。
静かな絵の中に込められた、語られない物語やまなざしが心に残る作品でした。

李禹煥《点より》—— 見るたびに変化する「点」の奥行き
続いて鑑賞したのは、李禹煥(リ・ウファン)の《点より》。
一見すると白地に淡く点が並ぶだけのように見える作品ですが、そこには不思議な奥行きがありました。
白地の画面に淡く並ぶ点。はじめは「横に流れているように見える」と感じた方が多く、私もその一人でした。
でも、ある参加者の「着物の絣模様のように見える。縦糸と横糸が交差しているようにも感じます」という言葉をきっかけに、「立体的に見えてきました」「浮き出るように感じます」といった声が次々にあがりました。
私自身も、その言葉を受けて改めて見つめ直したとき、点と点の間にある“間(ま)”が空間の奥行きをつくり出しているような不思議な感覚に包まれました。
一人では気づかなかったことも、他者の言葉によって新しい視点が生まれる。まさに「対話の中で見方が変わる」体験でした。作品そのものが、観る人との関係の中で変化していく不思議な体験でもありました。

石田徹也《無題》──「ロボット人間」が浮かびあがったとき
最後に鑑賞したのは、石田徹也の《無題》。
不安げな表情の人物たちと、彼らと一体化するような“ミシン”が印象的でした。
参加者の間では、「左腕がミシンのように見える」「でもミシンの機能を果たしているようには見えない」といった声が交わされ、私自身も、この人間なのに機械のように見える存在感にひっかかりを感じていました。
そんな中、ガイドの方が投げかけてくれた問い——
「この作品にはタイトルがありません。もし、皆さんがタイトルをつけるとしたら、どんな言葉が浮かびますか?」
いくつかの案が出るなか、ある方の「ロボット」という言葉を耳にした瞬間、私の中にふっと浮かんできたのが、「ロボット人間」という言葉でした。
それは、ずっと感じていた“人が機能として扱われることへの違和感”をようやく言葉にできたようなスッキリ感でした。

キャリア支援と重なる風景
この作品から感じた違和感は、キャリア支援の現場で出会う方々の声とも重なります。「ちゃんとやらなきゃ」「成果を出さなきゃ」と、自分の“感情”よりも“機能”で自分をとらえてしまう。気がつけば、“人”ではなく“役割”として生きているような感覚に包まれてしまう。
私たちは、誰かに言われたわけではなく、自分で自分を“ロボット人間”にしてしまっていることがあるのかもしれません。
この作品の印象が変わったわけではありませんが、「ロボット人間」という言葉が浮かんだことで、自分のなかにあった漠然とした感覚がスッと形を持ったような気がしました。
ガイドと対話が広げてくれるもの
所蔵品ガイドという50分の体験は、単にアートを鑑賞する時間というよりも、自分自身の感覚や価値観を静かに問い直す時間でもありました。
誰かの言葉がきっかけになって、自分の中にあったモヤモヤが形になったり、思ってもみなかったイメージがふと浮かんできたり。それはまさに、「アートとの対話」でもあり、「自分との対話」でもあったのだと思います。
キャリア支援でも、クライアントが言葉を探しているとき、誰かの一言や問いかけが“気づき”につながる場面があります。今回の所蔵品ガイドは、まさにそのような“問いが開いてくれる対話の場”だったように感じました。
自分だけでは見えなかったものに光が当たり、誰かのまなざしや声を通して、「作品」だけでなく「自分の内側」も少しずつ見えてくる。そんな時間が、今も静かに余韻として残っています。